自慢じゃないが、暑さには強いほうだった。
これはなにも虚勢を張っている訳ではなく、去年の夏までは一切の冷房器具を置かずに生活していたのだ。もちろん揃える金が無いということもあったが、街頭で配られる広告付きのうちわとか、学生時代に使っていた下敷きとかで事足りていたのである。
それより耐えられないのはむしろ音だった。夏は煩い季節だ。特に、開け放った窓から聞こえる蝉の声を重点的に憎悪し、呪詛をつぶやいていた。小さい頃に誰かから蝉の短い地上生活について聞いた覚えがあるが、夏になるとそれさえ無視して一匹ずつ、蝉という蝉を捻り潰して歩きたいくらいの気持ちになった。
今年になって気付いたのは、蝉よりも憎むべき対象があるということだ。それは皮肉にも去年ゴミ捨て場から拾って来た扇風機だった。どうやら前の持ち主に相当使い込まれていたらしく、ガリガリと不機嫌に現役引退の声を荒げているのだ。そいつはコンセントの関係で窓際に置かれているが、距離が近いぶん蝉よりも数倍厄介だった。不快な音が耳について離れず、遠ざけようにも部屋の広さが許さない。
俺が湧きたつ衝動に任せてそれを窓から投げ捨ててしまわないのには理由があった。扇風機の前に小さく陣取っている少年を少しでもこの部屋に繫ぎとめておくためだ。名前を赤木しげると言った。
少年は肌が白く、髪も白い。細身で小さく目を引くほどに整った顔立ちをしているので、初めて見た時は陶器で出来た人形のように思った。
赤木しげるに初めて会ったのは去年の夏だ。突然転がり込んできた白い少年に、俺は拒絶も歓迎もしなかった。どこかに帰る様子も無かったので普通に食事を共にし、普通に会話をした。互いに詮索することはしなかった。日が経っても俺と少年の仲は深いのか浅いのかよく分からず、俺と少年はどこまでいっても俺と少年だった。
少年が倒れたのは八月の半ば、暑さの厳しい日だった。訳の分からないほど動転した俺は少年を担ぎ、脚をもつれさせながら近くの病院まで駆けていったのだが、幸いにも大事には至らず日帰りで済んだ。初老の医師が言うには、少年は暑さに弱く、人並みに発汗が出来ないそうである。少年は日々の会話の中でそんなことを少しも口にしなかった。言ったことと云えばその日の夕飯のリクエストくらいのものだった。冷房器具の一つも無い俺の部屋は少年にとっては地獄だったろう。額に冷却シートを貼ってもらった少年はケロリとしていて、家に帰ると何事も無かったかのように窓際に座った。俺にはその澄ました顔がとても痛かった。
俺が贖罪するようにゴミ捨て場から中古の扇風機を引っ張ってきたのはその日の深夜だ。部屋に持ち帰ってちゃんと羽根が回るのを確認していると、横から少年が不思議なものを見るように覗きこんでいた。まさか扇風機を知らないのではと思い使い方など説明してやると、それくらい知ってると言ったあと不貞寝してしまった。どこか他人行儀な寝顔を見ながらもしかしたら余計なことをしただろうかとオロオロしていたのだが、翌朝になって胸をなでおろした。窓際に、扇風機の送風になびく白い髪があったからである。
「カイジさん、アイス取ってくれ。」
一年経った今でも暑さは少年の天敵であった。八月の初めにやってきた少年の手には大きく膨らんだビニール袋が提げられてあった。中身を見るとそれは大量のアイスで、地獄を生き抜くための少年の苦肉の策であることは明らかだった。それらをせっせと冷凍庫に詰めながらも、エアコンを買えない俺の財政事情を呪ったのは言うまでも無い。
俺は大きな義務を果たすかのように深刻に頷くと冷蔵庫へ向かったが、冷凍庫を開けた手が中へ伸びようとして止まった。
「どっち食うの?」
山と積んであったアイスは一週間で二個にまで減っていて、俺の視線の先にあるのは間抜け面のカバがパッケージに刷られたスイカバーと、期間限定の文字が踊るマンゴー味のカップアイスだけだった。どこぞのアイス大食い選手権への出場を推薦できる勢いである。少年の腹が下っていないか少し心配になった。
「どっちでもいいよ。」
その言葉を信用するなら、どちらのアイスを持っていったところで少年が不機嫌になることはないだろう。果たして少年が残った二種のアイスを覚えていたかどうか不明だが、再び冷凍庫へ伸ばした手に迷いは無かった。
酷くもどかしげに包みを破いたところを見ると、やはり小さな身体には暑さがこたえていたのだろう。
俺の決断は正しかったようで、スイカバーにかぶりつく少年は想像以上にいじらしかった。少年の白とスイカバーの赤を交互に見やり、芸術的なコントラストに満足して腰を降ろす。投げ出した足に何かが当たり、拾い上げた。顔の前まで持ってくるととそれは懐かしいことに数学のドリルだった。
「へえ、しげるもちゃんと中学生やってるんだな…。」
「なにズレたこと言ってんだ。俺はそこいらの中学生以上にちゃんとした中学生だぜ。」
スイカバーを咀嚼しながらも少年は得意げに言ってのけた。愛らしい小ぶりの頭をくしゃくしゃに撫でてやりたい。と思っているだけでそうしないのは、その誘惑に負けた日が俺の命日になることを知っているからである。
パラパラとドリルを捲ると、どのページにも綺麗な文字でビッシリ数式が書かれていた。なるほど、ちゃんとした中学生は伊達ではないらしい。
「すげえな。数学とか俺既に出来なかったぞ、中学ん時。」
「ああ、だろうね。俺も好きじゃねえよこんな退屈なの。」
文科省は中学生の授業に「かわいげ」を導入すべきではないか。スイカバーというかわいげアイテムをあっという間に平らげた少年はすっかり普段の調子を取り戻していた。
「苦手科目はねえの?思ったとおりにできないやつ」
「思ったとおりに出来ないってのはないけど…」
少年にしては珍しくも言い淀んでいるので表情を覗いてみると眉間に皺が刻まれていた。
「体育教師に泳ぎ方が変だって言われたことはある。」
ふと少年がざばざばと水を掻き分ける画が浮かんだ。白い素肌が陽の光を浴びて俺には眩しい。想像の少年は大きく水しぶきを上げるが全く距離に結びついていない。途中で立ち上がり悔しそうに水面を叩く姿に、頭を撫でてやりたい衝動がまたむくむくと湧いてくる。同時に、希少価値の高い健気な少年の姿を拝んだ体育教師、並びにクラスメートの生徒たちに高額な見物料をせしめたくなった。
「なら教えてやろうか、クロールなり平泳ぎなり。」
「それは面白そうだな。なるほど、カイジさんが教えてくれるのか。」
教科書を広げてどうのこうのとやる科目はお手上げだが、体育でましてや水泳となれば話は別だった。子供のころは夏になれば毎日のように市民プールへ自転車を走らせた思い出があり、泳ぎの腕には多少なりとも自信がある。少年の水着姿…否、健気な姿を見るためなら泳ぎ方のレクチャーなど安い。
「よし、決まりだな。いつがいい?俺は別にいつでもいいけど。」
「ニートだしね。」
「……。」
「善は急げだ。今夜にしよう。」
「は?夜ってプール開いてるか?」
「開いてるところは開いてるさ。大丈夫、俺が案内するから。」
高鳴る期待が顔に出ないよう必死に堪えて、俺は小難しい数式の書かれたドリルを意味も無くペラペラ捲った。
「混んでるかもなぁ、プール」
買い物から帰って来た時にはもう陽が落ちかけていた。
少年の言う通り定職についていないのですっかり失念していたのだが、今は世間では夏休みの真っ最中だ。デパートに並んだ昆虫採集キットを見てはじめて気が付いた。机では少年が数学ドリルの続きを書き込んでいるが、それだってこうして見ると夏休みの宿題に違いない。
セール品の鶏肉を冷蔵庫に仕舞いながらも俺は落胆を隠せなかった。夏休みとなればどこのプールも黒山の人だかりだ。小さな少年は泳ぐどころか、目を離せば押しつぶされてしまうかもしれない。何より、少年の白い肌が衆人の前に晒されるという状況がまず好ましくない。俺は少年に中止を提案すべきなのだろうか。
「大丈夫大丈夫、空いてると思うよ。」
その余裕の出所が知りたい。
「しげる、お前夏休みのプールの恐ろしさを知らないだろ。流れるプールなんかは悲惨で、あまりの人の多さに流されることも出来ずに皆立って行進してるんだぜ。流れるプールの考案者が泣くだろうが。」
「へえ、流れるプールなんてもんがあるのか。他力で流されて何が楽しいんだろう。」
「今、俺、プールの混み具合について心配してたんだけどさ。」
「だからそれは大丈夫だって。カイジさん、俺が信用ならないってのか?」
そう言われては何も言い返せず、俺はただうじうじと買ってきた水着の値段タグを切り取った。
少年は13歳の子供にしては妙に聡いのに、そのくせ世間には疎いところがある。この前だってそうだ。流星群のニュースを見ていた時に、俺が何気なく「願い事のバーゲンセールだな」とか何とか言って笑ったら少年は「どういう意味だ」と大真面目に切り返してきた。俺は呆れながらも懇切丁寧に流れ星と願い事の関係性を説明する羽目になったのだが、丁寧にしすぎたのか、少年は急に拗ねて出て行ってしまった。
気まぐれな少年はまだ幼く、そしてもう大人なのだった。今夜はせめて少年から目を離さず、見失わないことが俺の義務だろう、と思っていた。
「しげる」
「なんだカイジさん。」
「プールってこれか?」
「驚いたな、カイジさんにはこれが銭湯に見えるのか。」
アカギはフェンスをガシャガシャと鳴らしながら器用に登っていた。俺はフェンス越しに僅かに覗く水面を凝視する。なるほどそれは確かにプールなのだが、ある一点だけが俺の予想と大きくズレていた。
「…学校じゃん。」
「関係ねえよ、誰も使ってないんだから。」
果たしてそういう問題なのだろうか。辺りを見渡すと、すっかり暗くなった路地を間隔広く置かれた外套が照らしていた。目を凝らしてもそこに人影は見えない。道を挟んで公園があるが、そこもやはり寂れた遊具が置かれているだけで人は見当たらなかった。
「ほら、カイジさんも早く」
いつの間にか少年はフェンス越えに成功したようだ。向こうから聞こえた声は気のせいか焦れていて、俺の形ばかりの躊躇を吹っ切れさせるには十分すぎた。夜、プール、貸し切りと続けば誰だって胸が疼くだろう。中学一年生もそうなら無職の大人も例外ではなかった。はやる気持ちを抑えてなるべく音をたてないようにしながらフェンスを登る。上の縁に手が届いたところでぐい、と身を乗り出した。
飛び込んできた景色に息を飲む。うっかりバランスを崩しそうになったのを慌てて立て直した。
眼下に広がったのは宇宙だった。
無数の星粒がばら撒かれた無限の深淵を俺は確かに見た。静かだった。風も無く、揺らぐことのない水面に精密に複製された宇宙を見たのだ。思わず肺一杯に夜の欠片を吸い込む。
保たれている調和を乱さないように、ゆっくり慎重になってプールサイドに降り立った。
「あっ!」
水面に映った光が一筋の弧を描いたのはその時だ。
「なに?」
振り向くと少年は早くも水着に着替えていた。薄い月明かりの下で白い肌が一層際立ち、妖しく光っている。酔ってしまいそうな雰囲気に眩暈がした。落ち着こうにも逃げ場がない。
「流れ星が、いま」
動揺丸出しで水面を指さす。しかしそこに見た光の筋は既に消え、言い訳を探す子供のように焦って夜空を仰ぎ見ても見つけることが出来なかった。見事な八方ふさがりだ。
「願い事した?」
一言に心臓が跳ねる。
「してねえよ、一瞬だったし。」
そうか。と少年は呟き、駆け出した。俺のすぐ脇を抜けて滑るように大宇宙へと飛び込んだ。
突然の動きについていけず、呆気に取られて水面を見る。少年が着水したあたりから波紋が広がり、足もとに見えるプールの壁にぶつかって消えていた。呆然としている間にそれが幾つもいくつも繰り返されて、10を超えたところで急に恐ろしくなった。少年は泳ぎが得意でないという。もしかするとこのまま浮かび上がってこないのではないか。水面に目を走らせても深く黒い闇が見えるだけだった。
「しげる!」
心臓が冷水にさらされたように脈打つ。またひとり取り残されてしまった。少年が居なくなったら俺はどうすればいいというのだろう。そう考えると居ても立っても居られず、後を追って飛び込もうとした。その時だった。一面に広がる黒い鏡の真ん中に、ひょっこりと小さな白い頭が出た。悪戯な少年は俺の心労も知らず、口元に笑みを落として言った。
「泳いで俺に追いつけたら叶えてやるけど?」
少年の髪が濡れて輝いていた。
「願い事、叶えたいんだろう。」
少年はそれだけ言うと再び宇宙に溶けた。そして曖昧なリズムで水面に背を出し、頭を出して数多の星の間を進んでいく。少年が泳いでいるつもりなら、それは今までに見たことの無い変わった泳ぎ方だった。でも俺の知るどの泳法より綺麗で滑らかだ。
幻想的とも言えるその様子を見ながら、俺は静かにひとつ溜息を吐いた。お手上げだ。
仕方ない。少年の理不尽なお遊びに付き合おう、今暫くは。
着替えた俺が飛び込んだ時、抱えていたものの多くは諦めだった。
「惜しかったなカイジさん。あとちょっとだった。」
軽快に歩く少年に対し、疲れきった俺はその歩みに追いつくことすら難しい。
あの後宿直の教師が見回りに来て、俺と少年の追いかけっこは強制終了した。それでも寸でのところで逃げおおせたのは運がいいとしか言いようがない。教師は中年で、太っていた。
学校の隣に公園があったのは更に運が良かった。公園のトイレで着替えを済ませ、そして今アパートへの道を引き返している。相当な距離を泳いだはずなのだがこの体力の差は何なのだろう。
「ずりいよ…水泳苦手だって言ってたじゃん…。」
「苦手だとは言ってねえよ。体育教師に変だと言われただけだ。」
角を曲がると、遠くにコンビニの明りが見えた。店内から漏れ出た光が誘うように先の道路に落ちている。
「アイスでも買っていくか?」
口をついて出た言葉だが、言ってしまってから後悔した。少年が俺の知らない表情をしたからだ。俺はそう言う顔をされると決まって言葉を失ってしまう。だってそれは少年からの唯一の合図だ。
「うん、いや、アイスはいいよ。家にまだあるしな。」
冷凍庫に残ったアイスの数を少年は知っている。期間限定のマンゴーアイス。夏の終わりを待たずにそれが少年の胃に消えてしまえば俺の夏も終わるだろう。
「家に着いたら半分こにして食おうぜ、カイジさん。」
残酷な台詞に顔が歪んだ。嫌だ、嫌だ嫌だ。終わらせたくない。終わってほしくない。
突発的に少年の腕を掴む。不恰好でもいい。そうしないと駆け足で逃げて行ってしまう。
「惜しかったなしげる。あとちょっとだった。」
少年は少なからず戸惑っているようだった。訳がわからない、というように俺を見上げている。
俺は構わず腕を引き、小さな少年を抱きしめた。
「捕まえた」
少年は腕の中で苦しいと言って暴れているがもう少し我慢してもらうとしよう。
「ずりいよカイジさん、今更」
大人はみんなずるいのだ。少年は抵抗をやめたが、抱きしめているせいで表情は見ることが出来ない。少しの間、沈黙が流れた。
「いいよ、言いなよ。」
ああ、と短く答える。悩む俺に少年は「金か」と言って茶化したが、聞かなかったことにした。縋るように、腕にぎゅうっと力を籠める。これ以上すると少年は潰れてしまうのかもしれない。少年は小さい。
「夏の終わりに旅行に行こう。」
「へえ。それがカイジさんの願い事か?」
「うん、そう。」
少年が、小さく笑ったような気がした。
深夜、玄関のドアが閉まる音を背に聞いた。狸寝入りの腕は毎回上がっていると思うのだがどうだろう。それから寝心地の悪さに何度もゴロゴロと寝返りをうち、足の指を伸ばしたり折ったりした。
喉が渇いて台所へ向かった時には夜が明けようとしていた。俺の流れ星が帰ってくる夏の終わりまでには扇風機を修理に出さなければいけない。その時までにはコンビニで期間限定のアイスを買い占めておこう、と思った。